国立駅北口を出て、西へ向かう。4年間、天野可淡ドールセミナーに通った道を思い出とともに歩む。
 
駅前の風景もこの20年の間にだいぶ様変わりした。以前は緑も多く自然の気配が空気や風の中に散りばめられ、夕刻などは不思議な雰囲気を長く伸びる影に感じたりした。今は三角屋根の駅舎もなく、高架化した駅と並び建つ高層マンションの真昼に規格化された無個性の街を見るだけになった。
 
「ねじれた家」アガサ・クリスティー展のために制作された渦巻き貝型の建造物がある。
螺旋階段の上にはまるで心の奥の善と悪との対立に身もだえするかのように蹲る者たちがいる。左右非対称の曲線が心理的な不安を煽る。
 
精神の奥底に潜む何かを、荒い息づかいとともに漸く産み落としたかのような作品。
 
黎明に蠢く未分化の霊たちを眼に見える存在へと引き上げるために、あたかもその手に神霊を呼び込み泥土で練り上げ完成させたかのような人形の群れ。
 
薄膜を剥いで微弱な光のもとに這い出し、濡れた羽根を今まさに広げて蛹から蝶へと変態する瞬間、その一瞬を切り取り描いた作品。自己変革への憧れが満ちる。
 
幻視の空間に在る、淡き影のまぼろし。
 
可淡人形は見る者のイメージの世界に深く沈みこみ、ゆさぶり、心地よい不安と静謐な夢の中へと魂を誘う。
 
人間とは何か?どういう存在か?という問いかけ、自己の内部にある魂の在りかを手探りして回答を求め続けた経緯が作品として積み重なっている。その私たち二人に共通した深い意識への問いかけが魂を惹きつけあい、この世の同じ時間軸で出会い、師弟として共に学ぶ機会が作られた要因ではないか、と思っている。
 
それから宇宙とは何か?神とは?神は存在するのか?という心からの問いを手探りで模索しながら作品に顕す。根本にあるのは真理を求めようとする共通の思いなのだ。その思いが創作のエネルギーとなり、作品として顕現化される。
 
国立で学んだ4年間は実に充実した時間だった。
 
人形制作の技術や思想、作家としての在り方など様々な教えを、師として、瓶の口から口へ注いで移すようにすべてを残してくれたと感じている。
 
現実の中にあっては可淡さんは、両親の前では愛される娘であり、2人の娘たちの前では父親の代わりもする母であろうとし、弟子たちの前では頼れる師匠であり、また女性としても美しく恋人の前では可愛らしく、ペットの犬や猫の世話までし、家族とともに多忙な日常生活をこなしながら少しの空いた時間でも見つけては制作にあてる努力を積み重ねた人である。
 
自分勝手で気まぐれな芸術家タイプの生き方では決してない。細切れの時間をつなぎ合わせても作品にかける思いを持ち続ける、それは彼女の強さであったと思う。
 
写真に現れた作風のみを見て、普段から繊細で神経質な人であったのではないかと誤解する人もいるが、常に穏やかに人に接し、イヤな思いをさせないように心配りをし、相手の良いところ優れたところを見極め、愛をもって導き育てる包容力のあった人である。相手の全てを在るがまま受け入れて、それぞれに合わせて歩むことの出来る人である。
 他人に対して気づかいや細かい心配りが出来る人であったが、それを神経質と他人に思わせるほど余裕のない心の持ち主ではなかったのだ。
 
作品に関しては繊細でもあり、時には大胆に見える表現の仕方をしたり自分の感性には正直に従った物づくりをする人だった。
 
弱いものやこの世から消え行くようなか細いものたち、淘汰され失われる運命にあるものたちにも彼女の目線は向かい、作品として生み出して提示する。
・・このままでいいの?・・・アナタは見過ごすの・・・人形の濡れた瞳は語る。
 
古い遊女の物語を読んで背中に百合と蛇の刺青のある少女を作り、TVで奇形の猿のドキュメントを見て作らずにはいられなくなり四肢が不自由な猿の幼児を作り、人生に苦難の多い友人の話を聴いて何があろうと天を仰いで立ち上がろうとする痩せた少女を作り、自分が触れた世界に対しての思いをその時々の作品に綴っている。
 
外界からの力には犯されまい、惑わされまいと必死で自分を守るものたちへ向ける深い同情と共感。人々の問題意識を喚起するような作品から、人に愛されその傷を癒すような存在へと変化を遂げていった人形たち、可淡人形を手元に置く方たちは皆とてもその人形を愛している。そしてさらには人間に愛されるものから、人々に愛を伝え与える人形に変化しようとしていた。
 
もう少し彼女に時間があったならば、神のようにすべてを包みこみ、ありのまま愛し育み 成り立たせるような作家の愛情が人形に注がれ、人形から溢れ出し、人々の魂をうるおすような作品が生まれたのではないだろうか。それが芸術の本命だから。
 
作家の肉体が失われても、その思いをのせた作品は永遠に語り継がれる。天野可淡は伝説になった。